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福沢諭吉“脱亜”の背景―明治維新

2016-10-18李爽蓉

科技视界 2016年22期

李爽蓉

【摘 要】「脱亜論」とは、日刊紙「時事新報」紙上に明治十八年(1885年)三月十六日に福沢諭吉が発表した社説を指す。昭和八年(1933年)に慶応義塾編「続福沢全集〈第2巻〉」(岩波書店)に収録された。「脱亜論」が書かれた背景は明治維新の直後である。明治維新の歴史的性格について、日本資本主義の前近代性を主張する講座派の理論が、今日の史学界に大きな影響を与えたことは間違いない。

【关键词】「脱亜論」;明治維新;絶対主義天皇制

1 はじめに

「脱亜論」とは、日刊紙「時事新報」紙上に明治十八年(1885年)三月十六日に福沢諭吉が発表した社説を指す。昭和八年(1933年)に慶応義塾編「続福沢全集〈第2巻〉」(岩波書店)に収録された。「時事新報」は明治十五年(1882年)に福沢によって創刊された日刊紙であって、当然彼の強い影響の下にあった。

福沢諭吉は中国で広く知られている。福沢の肖像が、四半世紀にわたって最高額紙幣に刻印され続けているのは、福沢が「日本にとってよいことをした人物」「有名な思想家·教育家」「日本近代文明の建造者」等等と理解されているからなのであろうか。「脱亜論」については中国でもよく知られていて、脱亜入欧の思想も一般日本人の世界認識として話題になっている。ただし中国では「脱亜論」に対する見方は大部分が批判的であって、「アジアの隣国に対して軽蔑した態度を取り、列強を真似て侵略することを主張した」と見なされている。しかし「脱亜論」の断片を見たことがあるだけで、「脱亜論」の全文を読んだことのないのが普通である。更に中国の一般の人はこのアジア蔑視に満ちた「脱亜論」の執筆者が、他ではなく、「近代日本の偉大な思想啓蒙家·教育家」福沢諭吉であることすらを知らないのではなかろうか。恐らくこのような人が少なくないと思う。私の場合も例外ではなく、唯福沢諭吉が「脱亜論」を書いたという事実を知ったとたんに福沢と「脱亜論」に対し様々な疑問が心中に湧き出した。

一体、「脱亜論」は「近代日本最大の啓蒙思想家」である福沢諭吉がどのような背景において書いたものか、時代をさかのぼって考えてみることにしよう。

2 明治維新の性質

米国の砲艦が1853年に日本に侵入して、日本は「日米和親条約」という不平等条約を強制的に締結せざるをえなくなった。こののち日本は、英国·ロシア·フランスなどとも続けて同様の条約を結ばせられた。そして強制的に“開国” させられたあとの日本では、有識者が西洋強国の技術に学んで自強と自存を図るべし、という主張が行われる。この情況は同時期の中国と非常に似ている。そして、1868年の明治維新はこのような背景において起きた。

この近代アジア史上の大事件に対し、全く知らない中国人はほとんどいない。中国では明治維新が上から行われたブルジョア革命であり、維新後の日本が近代資本主義国家への道を歩きはじめる、と認識されるのが普通である。しかし日本においては、日本の資本主義の性格について、20世紀30年代前後に講座派と労農派の間で激しく論戦が交わされた。所謂日本資本主義論争と称する。吉川弘文館発行の『国史大辞典』によると、日本資本主義論争とは、第二次世界大戦前から戦後にかけてマルクス主義理論戦線上で、近代天皇制国家の性格とその階級的基礎、明治維新の歴史的性格、日本資本主義の構造的特質とその変化などをめぐって、多数の理論家·歴史家が参加して激しく展開された論争である。特に、日本農業に支配的だった地主制(地主的土地所有―零細小作関係)の性格を半封建制とみるか否かが一中心論点となったため、封建論争とも呼ばれる。結局、近代天皇制国家と日本資本主義の全過程の体系的把握については論議が切り結ばれることなく、論争は次第に消失していったが、日本資本主義の前近代性を主張する講座派の理論が、今日の史学界に大きな影響を与えたことは間違いない。

講座派は、野呂栄太郎「日本資本主義発達史」などにより、資本主義の前近代性を明らかにし、二段階革命論を唱えた。このことは、コミンテルンの27年テーゼ、32年テーゼの位置付けにおいても重要な役割を果たした。野呂は、維新の土地改革(地租改正)は封建的生産物地代を封建的貨幣地代へ転化したにすぎず、その後その下で発展した地主制は、地主が直接生産者たる小作農からその全剰余労働を経済外的強制によって主として生産物形態で搾取する半封建的生産関係であり、地主階級は未だ経済上、政治上の支配的地位を失わない独自の支配勢力であって絶対主義の段階的、物質的基礎は残存していると指摘した。このように、明治維新後の日本を絶対主義国家と規定したのである。論争が本格的に進んでいって、昭和六年九月(1931.9.8)「満州」侵略戦争の開始により日本の中国軍事侵略が国際的に大きな脅威を与えるとともに、国内的には恐慌が深化する中で労働者農民運動が再び激化するに及んで、国際的革命運動において日本の革命戦略の再検討が緊急の課題として討論され、片山潜·野坂参三など日本共産党幹部も参加したコミンテルン執行委員会で新たに「日本の情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」(所謂32年テーゼ)が採択された(昭和七年五月公表、七月『赤旗』公表)。それは絶対主義天皇制·地主制·独占資本主義の三者結合した支配体制、その中での天皇制の独自の役割、日本帝国主義の軍事的封建的特質を強調し、二段階革命論を明確にするとともに革命的情勢の切迫を説いたものであった。このように32年テーゼが福沢の没後約30年の切迫した情勢を明言している。

3 終わりに

ここでは講座派の説に沿って明治維新の性質について説明した。絶対主義天皇制のもとで、明治時代に活躍していた民間「思想家」として、福沢諭吉が「政府代弁者」のような役目を演じたのである。